「選択すること」が怖いあなたへ

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「選択すること」が怖いあなたへ

人は弱い生き物。

誰がそう決めたかわからないが、確かに丸腰で戦えば、動物の中で弱者の部類に入るかもしれない。
しかし、人には「頭脳」があり、そこから生み出される「知恵」がある。

人は太古の昔から、「知恵」を使って様々な局面を戦ってきた。
戦ったと言えば大層なことのように感じるが、何かに阻まれたとき、何かに悩んだとき、何かが害したとき、人は常にある種の「戦い」を迫られる。

「戦い」を好む人もいれば、当然「戦い」を避ける人もいる。
どちらが正解でも間違いでもない。
ただ、人はどちらかを「選択」しなければならない。
例え自分では「選択」できなかったとしても、いずれ時が流れて結果的に「選択」したことになる。

自らの「選択」を受け入れる人と、そうでない人が存在する。
「選択を受け入れる人」というのは、意志が強い人だと考える。
そうでない人、つまり「選択を受け入れられない人」は、その「選択」に「正解」を見出そうとする人だと考える。

「正解」のある「選択」とはなんだろうか。

例えば、左右に分かれた道がある。
右に行くべきか、左に行くべきか、ここで「選択」を迫られる。
人が「選択」するに至るまでに、様々なタイプがある。
・直感で選択する人
・情報を仕入れて選択する人
・他者に選択を任せる人
・3つ目の選択肢を見出す人

もっと他にもタイプは存在するはずだが、概ねこんなところだろう。
そして、このいずれのタイプも共通して言えることは、「そのどれにも正解がない」ということ。
もっと分かりやすく言うと、これらのタイプの中で確実に「正解」と言える選択が存在すると言い切れるかということだ。

一つずつ詳しく紐解いてみる。

直感で選択する人

先ず持って、このタイプの人は勇気がある。
なぜなら、事前情報など全くない状態で「直感」で選択するからだ。
そして直感で選択するということは、その先に何が待ち構えているかさえ分かっていない。
でも、直感で選択する。
なぜか。
こういうタイプの人間は、その先で何が起ころうとも「なんとか打開していける」自信があるからだ。
賭けではない。ラッキーを信じてるわけでもない。
この先、何があっても自分の力でなんとかしていける人なのだ。

直感を信じる人は、自分を常に信じている人。

情報を仕入れて選択する人

どの時代においても「情報」とは一番大事な武器だ。
情報一つで、状況を変える可能性も持ってるし、一昔前では一国を落とすことすらできるほど強大な力だ。
情報を仕入れて選択する人の多くは、「こっちの道のほうが安全」という確かな情報を手にした上で進もうとする。
なぜならそうしたほうが楽に進むことができるからだ。
しかし、情報にも「間違い」はある。
「こっちの道のほうが安全」という情報が10年前の情報だったとしよう。
その瞬間、人は選択を恐れる。
「こっちの道のほうが安全」という情報に対して否定的な情報があったとしよう。
その瞬間、人はその情報の優位性をさらに探そうとする。
情報は大事だし、重要だが、情報に情報を被せすぎると、情報に埋もれる。
何が真実か、何が間違いなのか、何が良くて、何が悪いのかが判断できなくなってくる。
なぜか。
そこに自分の意志がないからだ。
情報だけを頼っているから、情報に対して情報を上書きしようとする。
そして、情報にない事象が起こると、人は立ち止まってしまう。その事象を解決する情報を得るために。

情報を信じる人、いや信じすぎる人は、堅実なのかもしれないが、歩みは遅い。

他者に選択を任せる人

直感で選択するわけでもなく、情報を元に選択するわけでもない。
他者に判断を仰ぐ人は、愚の骨頂。
自身の意志もなければ、自身の判断はまったくない。
自分に自信がないから、信頼できる他者に判断を仰ぐ。ときにはそういう場面もあっていいのかもしれない。
しかし、その他者の選択で、自分に対して何か「良くないこと」が起こったとしよう。
そういうタイプの人ほど、その選択を代行した他者を罵倒し、責め立て、挙句に吊るし上げる。
「お前がこう言ったからだ」「あなたが決めたから」「君がこうしろと言ったから」
他者の選択は、「成功」して当然であり、「失敗」は悪。
そしてそれは、他者に選択を迫られる自分自身にも言えること。
他者の選択は安易にしないこと。
なぜか。
そこに一時的な「信頼」や「希望」があったとしても、想定外のことが起こったとき、その選択は無に帰するからだ。
他者は所詮他者。
人の人生の決断を他者が決めれるほど、甘いものじゃない。

他者を信じる人は、本当に信じていると言えるのか。負の状況を踏まえて考えなおしてほしい。

3つ目の選択肢を見出す人

右か左の2択を迫られている中で、3つ目の選択肢を見出す人は、正気の沙汰ではない。
しかし、他のどのタイプよりも独創的であり、他のどのタイプよりも自信に満ち溢れており、その人に対し信心を起こすほどカリスマ性を備えた人だ。
普通の感覚ならあり得ないと考えるだろう。
なぜなら3つ目の道などないから。
だが、このタイプは、そもそも思考が違う。
「右と左しか道がないのだろうか」「他の道はどこかにないか」「決められた道では面白くない」「道を歩く以外に何かできることはないか」
こんなことばかり考えている人だ。普通なわけがない。
そしてこのタイプの人は、何も恐れないし、何も信じない。
なぜか。
このタイプの人は、「正解」を追い求めているわけではなく、「新しい何か」を常に探し回っているからだ。
そこには当然、「正解」などあるわけもなく、「新しい」が故に、恐れることもできず、信じることもできない。
いや、どちらかというと、「恐れ」や「信じる」ことそのものが無意味と考えているはずだ。

新しい選択を見出す人は、何者をも圧倒する力を秘めている。

選択の先に見るもの

人は弱い生き物。
なぜか。
人は「選択」する前に、その先に起きることを「予測」してしまうからだ。
その「予測」の先は、なぜか「恐怖」を予測する。
つまり、「恐怖」を「予測」する「選択」をしてしまうかもしれないという「自分」が怖いから、人は弱い。

人が弱い生き物と決めつけてるのは自分自身だ。

だけど、
人は、本当は強い。

だから、その選択は大丈夫。

その選択の先で何か起きたら、逃げればいい。
その選択の先で何か起きたら、助けを求めればいい。
その選択の先で何か起きたら、戻ってくればいい。
その選択の先で何か起きたら、そのまま進んでみる勇気を出してみてもいい。

逃げることが、助けを求めることが、戻ることが、悪いことなんて誰も言ってない。
むしろ、その新たな「選択」で救われるものはたくさんある。

すぐには無理だろうから、まずは小さな選択を「自分の意志」だけでやってみるといい。
例えば、「今日はコンビニで『お茶』を買おうか、『水』を買おうか」とか。
バカバカしいと思う人もいるかもしれないが、こういうことすら「選択」できない人はいる。
これも立派な選択の一つだから、充分訓練になる。
そして、「自信」がついてきたら、ちょっと大きな「選択」をまたすればいい。

「選択すること」が怖いあなたへ

最後に「選択すること」が怖いあなたへ。
「選択」を迫られたとき、あなたは「恐怖」を想像してないだろうか。
もしそうだとしたら、ほんのちょっとでもいいから「幸せ」なことを想像してみてほしい。
その2択には「恐怖」も想像できるかもしれないが、同時に「幸せ」なことも必ずあるはずだから。
そうすると、何故か不思議なことに「選択」することにためらいが薄れてくるから。

まずは、「お茶」か「水」を選んだときの「自分に起こる幸せ」について考えてみよう。

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